ニュース

ニュース

  • 2024.08.23
  • 教員インタビュー
  • <LDC教員ロングインタビュー>田中 聡 准教授(前編)「就職活動も教育も、その人がやりたいことを実現する未来をつくるためにあるべき」

 LDC教員にスポットをあて、深堀りするLDC教員インタビュー。今回は経営学研究科リーダーシップ・ウエルカム・プロジェクト、データアナリティクス演習、チームワーク論、リーダーシップ・ファイナル・プロジェクトの講座を担当する田中 聡先生です。

専門は人的資源管理論(人材マネジメント)。著書に『経営人材育成論』、中原淳先生との共著に『シン・人事の大研究―人事パーソンの学びとキャリアを科学する』『「事業を創る人」の大研究』『チームワーキング』などがあり、働く人と組織の成長・学習を研究しています。

 

 

◇瀬戸内の海辺の町で過ごした子ども時代

 

―今日は田中先生の歩んでこられたキャリアについて詳しくお伺いしていきたいと思っています。田中先生は山口県出身とのことですが、どのような子ども時代を過ごしていらしたのですか?

 

田中 出身は山口県周南市というところです。実家は瀬戸内海に面した海の近くにあり、周囲にあるのは田んぼと畑と山と川と…まあ一言で言うとド田舎です。子どもの頃は、よく近くの海や川で遊んでいました。習い事もいろいろやってましたね。とくにそろばんは長く続けてました。最終的には珠算と暗算は四段まで取得し、県大会では3位になったこともあります。

 

―それはすごいですね!近所でも評判の神童だったのではないですか?

 

田中 いえ全く…それどころか褒めてもらった記憶すらほとんどないですね。というのも、2つ上に姉がいまして、この姉がなんでも器用にできてしまうんです。習い事が同じだったこともあり、習い事の先生からはよく「◯◯ちゃん(姉)の弟」と呼ばれ、よく姉と比較されてました。自分なりに頑張って成果を出したつもりでも、いつも姉には及ばず、褒められることは無かったですね…。親からはいつも「あなたは大器晩成だから、大丈夫!」と根拠のない期待をかけられていました。親はそんなに意識してこの言葉を使ってはいなかったと思いますが、当時の自分にとってはこの言葉が救いになっていたような気がします。

 

―高校は地元の高校にいらしたのですか?

 

田中 地元の公立高校に行く予定だったのですが、高校受験に失敗してしまい、少し離れた私立高校に通うことになりました。ところがこの高校、やんちゃな生徒の多い学校だったためか、締め付けが厳しく、なかなかハードモードな生活を送っていました。例えば、早朝の授業が7時15分から始まるのですが、その時間に全員教室に集合していないと、連帯責任で…あ、この先は言えません(笑)のでご想像にお任せしますが、なかなか過酷な高校生活でした。ただ、過酷ではありましたが、その中でどうやってルールをかいくぐってたのしんでやろうかと、みんなある種、ゲーム感覚で過ごしていたんですよね。今でも当時の先生や同級生とは交流が続いていて、よく当時の思い出話を語り合います。今となってはいい思い出ですね。もう一度当時に戻りたいかと言われると、即答で「ノー」ですけど。

 

―上京して、慶應義塾大学の商学部へ進学したのはなぜですか?

 

田中 これといって明確な理由はなかったです。もともと国立大志望だったのですが、センター試験(現・共通テスト)が思うようにいかず進路先の見直しを迫られたなかで、たまたま受験科目にフィットした大学・学部だったというだけで。ただ、大学に入学してからは…、もう楽しかったですね。恥ずかしながら、1、2年生の頃はほとんど勉強していませんでした。洋服が好きだったので、服飾サークルに入っていました。自分たちで洋服をつくり、モデルに着てもらって、イベント会場を貸し切ってファッションショーを行ったりしてました。すべてが楽しい思い出でしたね。

 

―田中先生のオシャレなイメージはそういったところから来ていたんですね。しかし、ここまで、人も組織も全く出てきませんが?

 

田中 ここからです(笑)。そんな感じで、大学1,2年を過ごしていたのですが、帰省をする度、両親に仕送りをしてもらいながら、こんな風に毎日遊んで生活しているのは申し訳ないな…とも思うようになり、3年次からは当時、学部のなかで当時一番鍛えられるゼミとして知られていた髙橋美樹先生のゼミに入ることにしました。通称エグゼミ(エグいゼミ)と呼ばれる評判通りのエグさで…、例えば、入ゼミ早々、8週間に渡って毎週レポート課題が与えられるんです。1回あたり5000~1万字のレポート課題なのですが、これがなかなかの苦行なのです。レポート課題のテーマは、例えば「イノベーションを起こすには、大企業とベンチャー企業のどちらが有利か」といったものです。1つのレポートの中で、ある問いに対して検討すべき論点を整理し、それぞれの強み弱みを洗い出して両者を比較検討しながら、最終的に自分なりの結論を出す、ということを行うわけですが、このレポート課題は「提出したら終わりではない」のです。内容について先生からの細かなチェックが入り、合格をもらわなければ、永遠に再提出なのです。というわけで、誰一人8週間では終わりません。もちろん、ゼミの課題やワークはそれ以外にもありますので、それらの活動と同時並行でやらなければならないのです。3年生の春学期から始めて、4年生の夏頃までこの課題をやっている人もざらにいました。

 

―それは確かにしんどいゼミ…ですね。

 

田中 いま振り返ると髙橋先生のゼミ生に対する指導の手厚さは本当にすごいなと思います。大変でしたが、とくに考える力・調べる力・書く力という意味ではものすごく力がつきましたし、目に見えて成長を実感できる分、やりがいはありました。すっかりゼミでの勉強にのめりこみ、1、2年の生活とはがらっと変わって3、4年は1日中図書館で過ごすような生活を送っていました。ただ、当時も特に将来のキャリアについては明確な目標があったわけではありません。人並みに就活をしていたところ、大学の就活セミナーで若くしてある外資系消費財メーカーでプロダクトマネジャーをなさっているという方に出会いました。その方がすごくかっこよくて…。それからはその会社一本で就職活動をしていたのですが、選考途中で落ちてしまいまして…。

 

◇第一志望の企業に落ちて気づいたこと

 

―第一志望の企業の選考に落ちてしまった!

 

田中 はい。その時はもうその会社にしか興味が無かったので、頭が真っ白になりました。どうしてもその会社に行きたいから来年もう一度就職活動をさせてほしい、と親に頭を下げようか、でもさすがにちょっと言い出しにくいな…などと悩んでいる時に、ちょうど帰省して中学の友達と食事をする機会がありました。彼らはほとんどみんな地元で就職していて、なかには高校中退で就職して3社目、4社目という人もいました。実を言うと、上京当時の自分は東京での生活や交友関係に刺激を感じる一方、地元の友人たちとは共通の話題が少なく、少し距離を置いて接するようになっていたんです。地元から出て、一人だけ川を渡ったみたいな気分で。ただ、志望企業に落ちて「これから将来どうしよう」となったタイミングで久々に地元の友達と話し、いざ悩みを打ち明けてみると、思った以上に彼らから多くの気づきをもらえました。その時、自分が勝手に作っていた壁のようなものが取り払われて、どこかフラットになれた感覚がありました。

 

―地元の友人たちと再び分かり合えたのですね?

 

田中 はい。その時、ある友人から「おまえには選択肢がたくさんあっていいよな。俺らには選択肢なんてないからなぁ」と言われたことを今でもはっきりと覚えています。その言葉をきっかけに、「将来やりたいことがはっきりしていない20歳の若者という点では、自分と彼らとの間には何の違いも無いはずなのに、なぜ選べる選択肢の幅がこんなにも違うのだろう?」と自問自答しました。また、彼らにも小さい頃は「大きくなったらこうなりたい」といった思いがあったはずなのに、たまたま勉強が嫌いになったり、学校に行きたくなくなったりして、ちょっとでも社会のレールを踏み外したらセカンドチャンスが与えられない、という世の中の硬直化した仕組みに当時ものすごく違和感を持ちました。はじめて自分のなかで社会に対して問題意識が芽生えた瞬間です。

 

―その後、就活はどうされたのですか?

 

田中 いろいろと調べていくうちに、就活という仕組みやルールづくりに関わっている人材業界や教育業界に興味が湧いてきました。ほとんどの大学生が、世の中にどんな仕事があるのかも、よく分かっていないのに、20歳頃になると、周囲に合わせて「給料高そうだから商社かな」「華やかそうだから広告代理店かな」「安定してそうだから銀行かな」など漠然とした理由でなんとなく進路先を決めてしまいます。自分自身や地元の友人たちの経験から、もっと早い時期、たとえば小学生や中学生の頃からいろんな仕事や働く大人に触れ、キャリアの選択肢を意識する機会があるといいなあと思うようになりました。そこからの就職活動では、当時話題になった書籍「13歳からのハローワーク」(村上龍・著)みたいなコンセプトのメディアをつくりたい、という新規事業プランを持っていくつかの会社に提案していました。

 

―就活で新規事業の提案をなさったのですか?

 

田中 はい。自分で資料をつくって、若手にもチャレンジの機会を与えてくれそうな会社を中心に受けていました。当時、インテリジェンスの役員をされていた江田通充さんとの最終面接で言われたことはすごく印象に残っています。「子供と大人がつながる新しいメディアを作ることも大事だけど、子どもたちにとっては『一つひとつの家庭』こそが大人や社会を知る一番のメディアなのではないか。お父さん・お母さんが楽しそうに働いている姿をみれば、子供たちは自然とその仕事に興味を持つようになるはず。でも、今はまだ残念ながら楽しく働いている大人たちが少なすぎる。だから新たなメディアをつくっても世の中は変えられないと思うよ。それより、まずは楽しく働く大人たちを一人でも多く増やすことが大事で、そのためには自らの意志で選んだ仕事、自分で決めた仕事をやっているという実感を持ちながら働く社会にしなければいけない。今自分たちがやっているHRビジネスというのは、まさに一人ひとりにできるだけ多くの選択肢を提供することで、楽しく働く大人たちを増やす仕事だよ」という話をしていただき、心動かされ、入社を決めました。

 

◇新卒入社でいきなり子会社に出向

 

―新卒でインテリジェンスに入社。いきなり新規事業をやらせてもらえたのでしょうか?

 

田中 いえ、現実はそんなに甘くありませんでしたね(笑)入社していきなり子会社に出向、という予想もしていなかった配属でした。同期約300名の中で私ともう一人の女性の2人だけでした。出向先は、総合商社の三井物産と共同出資で立ち上げた子会社で、主にファッション業界向けにHRサービスを提供するというものでした。当時はまだ30名ほどの会社で、新卒の受け入れも私たちが初めてという状況でした。結果的に自分にとってすごくいい配属だったと思っています。

 

―大学時代にファッション関係のサークルにいらした田中先生にはぴったりの配属でしたね。

 

田中 それはたまたまだったと思います。小さな会社だったので新人でもいろんな仕事を任せてもらえたし、担当するお客さんも担当者よりも経営者の方々が多かったので、会社をどう成長させようかという経営の観点から人や組織のお悩みに応える仕事を求められていたので、やりがいを感じていました。採用支援の仕事だけでなく、その後の定着や育成の支援など、会社にはないサービスメニューを勝手に提案したりしてましたね。そういう自由度を与えてくれた当時の会社には本当に感謝しています。中原淳先生の書籍「企業内人材育成入門」を読んで、お客さんを集めて勉強会をやったりしていたのもこの頃です。新卒から4年間、職場の上司や先輩・同僚のみなさんに加えて、たくさんのお客様に育てていただいたな、という気がしています。

 

 

インタビュー後編では、「研究テーマである経営人材の育成や新規事業をつくる人材・組織のマネジメント 」「LDCで学ぶ方々へのメッセージ」について伺ったお話をご紹介いたします。